伊加賀切れ

赤井堤の調査の際、明治18年の淀川の大洪水「枚方切れ」について少しふれた。
一般的には、最初に決壊した地名から「伊加賀切れ」と呼ばれている。
今回は改めて、その大洪水を調査することにした。

伊加賀切れは淀川至上最大の洪水だ。
どれほどすごいかといえば、大阪平野が1600年前の河内湖の状態にもどった。
つまり、上町大地を除く大阪全域が水没したという、大規模な洪水だった。
橋は安治川橋と数橋を除いて、すべて流されてしまったという。


崩壊した安治川橋※淀川河川事務所サイトより引用

明治18年の梅雨、6月15日から17日にかけて、豪雨が降り続く。
二つの発達した低気圧(700mm台)により、雨量は市内で180mmに達し
枚方では淀川の水位が4mを越える。

17日の20:30ごろ、枚方の天の川堤防が、現在の京阪枚方市駅あたりで決壊し
同時に淀川左岸の伊加賀堤防も決壊する。


決壊した伊加賀堤防※淀川河川事務所サイトより引用

洪水の勢いはすさまじく。決壊箇所をえぐり、19日までに破堤は145m以上にもなったという。
浸水は大阪市内にもおよび、徳庵堤(寝屋川堤防)までもが決壊の危機にさらされた。
そこでこの濁水を本川に戻すため、現在の都島区網島付近の堤防を切開して淀川に放流したという。
俗に「わざと切れ」とよばれるが、これについては現地調査を交えて後述する。

これで治まるかに思えた洪水だが、第二弾が待っていた。
25日から再び暴風雨に見舞われ、天の川堤防、淀川左岸三矢村安居堤防が切れる。
せき止め工事が完了していなかった伊加賀堤防も再び決壊する。

宇治川、木津川、桂川など各支川の堤防が次々に切れ
寝屋川の徳庵提を破り、計46カ所の堤防が決壊し
淀川本支川はほとんど決壊しないところがなかったようなありさまとなってしまった。
およそ450ヵ町村が水中に没し、28万人以上の人々が被災した。


※淀川河川事務所サイトより引用

’13.2.3(日)昨日から春を思わせる陽気だ。
決壊場所の枚方市伊加賀地区に向かう。

途中、赤井堤のとき、発見できなかった五兵衛樋を探す。
が、やはり見あたらない。
怪しいのは、下に水が流れてそうな、鉄板でフタをしたところ。

帰って、淀川資料館発行の「淀の流れ」第74号を読んでみると
どうやらここらしい。

淀川堤防を北へ走る。
以前の調査で、京街道は堤防の上に築かれたと書いたが
街道は、光善寺を通るルートと堤防を通るルートに分かれていたようだ。

光善寺からのルートが、堤防からのルートと交わる手前にある段差。
東西方向に、数十メートルは続いている。
前回の調査でも気になっていた場所だが・・・

堤防上の府道脇には、伊加賀切れの記念碑が建っている。
2010年、この場所に移設されたらしい。
決壊箇所は越流によりえぐられ、水深が5.5mもあった。
そのためその箇所を囲むようにして、仮堤防を作ることなり
延べ400人の人夫が御殿山から運んだ土砂で仮堤防を築いたというようなことが、書いてあった。

下の図は、当時の新聞の決壊部分を解説したものだ。

そしてこれが決壊部分の現在の地図。

思わずあ!っと言ってしまった。
お解りだろうか、仮堤防跡が。

同じ地点の明治21年測量の地図とくらべると、さらにはっきりと解る。


※「十三の今昔を歩こう」より引用

明治21年といえば、洪水から3年後だ。
仮堤防の南にも、まだ水が引いていない場所があるし
決壊箇所は、ぽっかり口を開けたままになっている。
街道が交わる地点には堆土を表す地図記号がある。


※国土地理院サイトより引用

上は、1946年に撮影したものだが
決壊箇所の中央は、戦後まで残っていたという沼が確認できる。

現在の地図で、もう一度段差の場所をみてみよう。
この段差は仮堤防跡で、間違いなさそうだ。

写真は、仮堤防上A地点を京都側より撮影した所。

こちらはB地点を、同じく京都側より撮影。

さらに、明治の地図の左には、記念碑を示す地図記号がある。
現在の地図と重ね合わせると、上の地図に示した地点となる。

写真中央の地点が、かつて記念碑があった場所になる。
枚方大橋のランプウェイのど真ん中で
だれも見る人もおらんやろうということで、移設されたのだろうか。

さかのぼって1.27(土)、B級グルメの下見の行きがけに
わざと切れの地点の調査をしてきた。

堤防を切れば洪水になる。
なのにどうして、わざと堤防を切ったのだろう。

下の地図の都島を中心とする地域は、三隅を堤防に囲まれている。
地図は現在のものなので、伊加賀切れのころとは少し違うが
北と西は淀川の文禄堤、南は寝屋川(当時は古大和川跡井路)の徳庵堤に囲まれる形だ。

ここに。北東より洪水が押し寄せた。
となれば、水は三方の堤にせき止められて、排水できない。
最初の洪水では、水位が5mを越えたところもあったらしい。

そこで赤い点で示した地点。
現在の都島区網島で堤防をわざと切って、この水を当時の淀川本流
現在の大川に放流したというわけだ。
すでに堤防が決壊している淀川本流は水位が下がっていた。

ここがわざと切れを行った地点。
この石碑の存在は、以前から知っていたけれど
それが、わざと切れを記念するものやったとは。

さらに、銀橋の少し北にある桜宮神社には、わざと切れの記念碑が立っている。

この記念碑は、寝屋川沿い、徳庵橋付近にあるものだが
伊加賀切れを表すものだ。
被害が大阪全域におよんだことが解る。
わざと切れによって、一時は決壊をまぬがれた徳庵堤だったが
最終的に決壊しでしまったのは前述の通りだ。

この水害をきっかけとして、河川法が制定され
国が直接、治水を行うになった。
新淀川の開削をはじめとする、大規模な淀川改良工事が始まっていくことになる。

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